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日本史の実行犯 ~あの方を斬ったの…それがしです~ 武田四天王・山県昌景を狙撃した男

日本史の実行犯 ~あの方を斬ったの…それがしです~【大坂新助】

武田信玄に惨敗した徳川家康

 徳川家康は三河を平定して後に遠江(静岡県)に領地を広げ、元亀元年(1570年)の「姉川(あねがわ)の戦い」では浅井・朝倉家の連合軍に勝利を収めた一方で、元亀3年(1572年)に起きた「三方ヶ原の戦い」では甲斐(山梨県)・信濃(長野県)を領する武田信玄に惨敗を喫しました。
 この戦に前後して、武田家は、二俣(ふたまた)城や野田城など徳川家の諸城を瞬(またた)く間に落としていっています。その中で柿本城や井伊谷(いいのや)城、伊平(いだいら)城などを落城させる目覚ましい活躍をしていたのが山県昌景でした。
 これらの合戦での新助の動向は分かりませんが、徳川軍の一員として従軍していたかもしれません。
 さて、「三方ヶ原の戦い」の直後に武田信玄が病死(狙撃が原因とも)したものの、その跡を継いだ武田勝頼は父の信玄と同様に徳川家の領地に攻め込んできました。
 その標的となったのが高天神(たかてんじん)城(静岡県掛川市)でした。この城は遠江における徳川家の重要な軍事拠点で、武田家と徳川家がこの城を巡って激しい争奪戦を度々繰り広げていました。
 天正2年(1574年)に武田勝頼は、父の武田信玄が落とせなかったこの城を、ついに落城させることに成功します。

長篠城を攻めるも、奇襲にあう

 遠江を掌握した武田勝頼が次なる標的としたのが、三河の長篠城(愛知県新城市)でした。
 この城は遠江との国境にある、高天神城と同様に武田家と徳川家が激しく奪い合った城です。
 当初は徳川家に属していたものの、武田信玄の侵攻を受けて武田家に属しました。しかし、武田信玄が亡くなるとすぐに徳川家康が攻め落とし、再び徳川家に属する城となっていました。
 天正3年(1575年)4月、武田勝頼は1万5千の大軍を率いて三河への侵攻を本格的に始め、5月にはとうとう長篠城を取り囲みました。長篠城に籠こもる徳川軍は、わずか500。落城は眼前に迫っていました。
 長篠城を落とされてしまっては、徳川家の三河の支配体制が揺るぎかねません。

 そこで徳川家康は8000の徳川軍に加え、援軍を依頼した同盟相手の織田信長の3万の大軍と共に長篠城の救援に向かいました。
 5月18日、長篠城から4㎞ほど西にある設楽原(したらがはら)に到着した徳川・織田連合軍は、その場に陣を設けて馬防柵(ばぼうさく)を築きました。その中に新助の姿もありました。
 さらに、5月20日の深夜、織田信長は徳川家の重臣の酒井忠次(さかい・ただつぐ)に命じて、長篠城を取り囲む武田家の拠点である「鳶ヶ巣(とびがす)砦」を奇襲によって攻め落とし、武田軍の退路を脅かすことに成功しました。

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長谷川 ヨシテル

はせがわ よしてる

歴史ナビゲーター、歴史作家。埼玉県熊谷市出身。熊谷高校、立教大学卒。漫才師としてデビュー、「芸人○○王(戦国時代編)」(MBS、2012年放送)で優勝するなどの活動を経て、歴史ナビゲーターとして、日本全国でイベントや講演会などに出演、芸人として培った経験を生かした、明るくわかりやすいトークで歴史の魅力を伝えている。テレビ・ラジオへの出演のみならず、歴史に関する番組・演劇の構成作家や、歴史ゲームのリサーチャーも務めるほか、講談社の「決戦! 小説大賞」の第1回と第2回で小説家として入選するなど、幅広く活動している。NHK大河ドラマ『真田丸』(2016年)の第3話に一般エキストラとして14秒ほど出演。また、金田哲(はんにゃ)、山本博(ロバート)、房野史典(ブロードキャスト!!)、いけや賢二(犬の心)、桐畑トール(ほたるゲンジ)とともに、歴史好き芸人ユニット「六文ジャー」を結成、歴史ライブやツアーを展開中。トレードマークは赤い兜(甲冑全体で20万円)。前立ては「長谷川」と彫られている(特注品で1万5千円)。著書に『ポンコツ武将列伝』(柏書房刊)『マンガで攻略! はじめての織田信長』(原作・重野なおき、金谷俊一郎との共著、白泉社刊)がある。雑誌『歴史人』の人気ウェブ連載をまとめた『あの方を斬ったの…それがしです ~日本史の実行犯~』が3月19日(月)配本!


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  • 長谷川 ヨシテル
  • 2018.03.20